駒込の六義園を三十分程で後にして、地下鉄で小石川後楽園に行く。 昨年は午後に気づいて行ったのですが、いい色合いの枝垂れさくらが日陰となって、見栄えよく写せませんでしたので、今年は必ずや午前中にと思っていまして、その通りとなりました。
六義園には大きな枝垂れ桜が一本と言ってもいいのですが、こちらには七本ほどあるそうでして、それがほとんど見頃となって迎えてくれました。 後一本紅枝垂れさくらがあるのですが、これは一週間くらい後となるはずです。
人が多かったのですが、離れて高台に昇りますと、誰もいませんで、「いや絶景かな、絶景かな」ってな気分を独り占め出来たと言っても過言ではないでしょう。 「利は独占にあり」か、電力会社と同じか。(~o~) ただただ溜息ばかし。
「得仁堂」と言う水戸光圀様が名付けたと言う庵の先にある高台です。 「得仁」、仁を得る、いい言葉ですが、野太鼓は欲に目が眩んで「仁政」を施すなぞとは縁なき輩なのでしょう。 あれには「巧言令色鮮仁」、巧言令色鮮(すくなし)仁と言う言葉がぴったしなのでしょうが、民を困らし惑わす事に執念するのだからどうしようもない。 放射能を撒き散らして放置しても、まさに「蛙(かわず)の面(つら)に小便」なのでしょう。 困ったものです。 御老公様に乗り込んで頂き、悪政を諌め、悪政を糺して頂きたい、はかない夢か。
現代は庶民でもこう言う庭園に入れる、光圀様も隔世の感を感じられているはずです。 これこそ「得仁」なりや。(~o~)
そんな詰まらない人の世を全く忘れさせてくれるのがこの庭園の桜様です。 自分の命もやがては絶える、いつだかは知る由もない、誰しも同じ。 それが人の命ですが、こうしてのどかにさくらにうっとしてとして命あるひと時を楽しむ。 「死んで花実の咲くもんか」、辛い事切ない事悲しい事もある命ですが、死んだら花実・花見もないものよってなところでしょうか。
今朝は五時に起きましたが、仏壇に向って「今日は一緒にお花見に」と声をかけました、自分には叶わなかった夢ですが、共に眺めているような気持ちになれました。
坊主の法話で「同じ血が通っていますで、自分で見ること口にするものも、御先祖様と共に眺め共に味わうのと同じ」云々がありました、あのカマっけ坊主もうまい事を言ったものだと思い出しまして苦笑いしてしまいました。
こうして今日の日を無事に迎えられましたが、これこそありがたき不思議なりと感じています。 そう感じますとどうしても兼好さんに連れ戻されてしまいます。
「されば、棺(ひつぎ)をひさく者、作りてうち置くほどなし。 若きによらず、強(こは)きによらず、思ひ懸けぬは死期(しご)なり。 今日まで遁れ来(き)にけるは、ありがたき不思議なり。 暫しも世をのどかには思ひなんや。」 第百三十七段 注 : ひさく(売る)
白壁に沿って「チンチョウゲ」が香る春の道を帰途に着きましたが、早起きのお陰で仕事にも予定よりも一時間早く十一時に就けました。 いい午前中を過ごせましたので大満足でした。 久々に淡い興奮を味わいました。 色々と気をもんだお陰なのでしょう。 二日前の春の嵐にはお花見は駄目かと思ったくらいでしたので、よころび一塩なのでしょう。
→六義園枝垂れさくら →身近なさくら、春爛漫
「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。
|