平成二十三年四月十日・April 10th, 2011、近所にて撮影

  花曇りとか花冷えと言う言葉がありますように、この時期は曇りの日が多い。 やはり青空に映える桜ですが、天気にああだこうだと言っても詮方なし。 丁度あの東北大地震大津波から一ヶ月が過ぎました。 こちらでも余震が結構まだある。 明日はわが身と思えば、拾った命となり、免れた命ならばこそと思い 写真を撮ろうとする。 六義園、小石川後楽園に続き、今年は三つ目の写真集となるのですが、今回は近所のさくらとこの時期に咲く花、椿とかも同時に掲載してみようと思います。 被災地ではさくらどころではない、まずは辛うじて生き延びる事が先決。 ああ言う事がなければ、今頃はお花見を楽しみにしていたはずです。 惨状を見ると絶句してしまうのですが、あれも自然、この華やかな桜も自然のなせる業(わざ)なりとだけ、胸中にしっかりと刻み込んでおきましょう。 人と生まれ人の置かれた立場をしっかりと見つめていたい。

 昨年の今頃亡き母と最期の花見となった枝垂れ桜をまた拝んで、色々な思いの渦巻く。 もう共に生きる事なき縁(えにし)なり。 今年も意欲満々の姿を見せたい気持ちもありまして、こうして一気にやりのけてしまったのでしょう。 昨年は四月に雪が降ったのを覚えています。

             

 春としなれば見過ごしてしまうような小さないのちも吹き出す、気が付かずに踏み倒してしまう事もあるはずです。 蟻や蚊のような虫けらから少しは愛でられる小さな花から、人々を引き付けて浮いた気持ちにさせるあでやかな桜の花まで、新しいいのちが吹き出す。 

 仏教なんぞはとんと知りませんが、「殺生」を戒めていると思います。 今度の東北の災害で人も建物のあっと言う間に奪われてしまいましたが、それでは人は殺生はしないのかと思えば、鳥は食べる、魚も食う、豚も牛も殺して食する。 それぞれに命あり、家族もありですが、お構いなしで殺生して食べてしまう。 それがまた人にとっては当たり前のような暮らしをしている訳です。 それどころか戦争をして人殺しを繰り返している。 

 また原発ですが、その元を辿れば「大量殺戮破壊兵器・原爆」のはずです。 因果を思えば、またまた多くの人に被害を及ぼしてしまいました。 悪魔の発明と言えるものでして、やはりここで悪魔の化けの皮がはがれてしまったようです。 平和利用だ安全だのの厚化粧が落ちて素顔を見せてしまいました。 もう取り返しが出来ない。 損得ばかしの世の中ですが、計算だけで行っても損失は膨大で測り知れない、大損のはずです。

 原発に従事した人の手記を見つけました。 海に汚染水を昔から流していたとの事、恐るべき事です。

 やれ月へ言った云々の文明科学も災いしかもたらさないのでないかとの疑念を抱くようになりました。 月を眺めてこそもののあはれも知られけれ、月へ行っても「もののあはれ」もあるまじき。 師曰く「利によりて行えば怨み多し」と、怨み多き世となってしまいました。

             

 今年は四月四日に訪問の「六義園 しだれ桜」、「小石川後楽園 枝垂れ桜」に続き、「身近な枝垂れ桜」の三つの画像集を一気に編集してしまいました。 寸陰愛惜の情を強く感じ取る春となりました。 

 さて東北は大変なぞと言う状況ではないのですが、よしんば復興が出来たとしても、さて人の世は人に戯(たはぶ)れ、物に争ひ、一度(ひとたび)は恨み、一度は喜ぶ。 その事定まれる事なし。 分別みだりに起こりて、得失止む時なし。 惑ひの上に酔へり。 酔ひの中に夢をなす。 走りて急がはしく、ほれて忘れるたる事、人皆かくのごとし。」 第七十五段

 「惑ひの上に酔へり、酔ひの中に夢をなす」、然り、まさにその通りならむや。

 はかない命、わずかないのちですので、穏やかに暮らせる事を念願します。

               

       

  結構綺麗に撮れたと自負しているしだれ桜の画像をまた追加します。 来年また会えるのや、会いたいものです、拝みたいものです。 都心の小さな公園で撮りますので、どうしても背景にビルや建物や人が写ってしまいますので、中々難しい。 背景が暗いのでさくらがくっきりと撮れたはずです。

             

                          

                                               

 「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。