陽気のせいでずらして四月二十七日頃の訪問にするつもりでしたが、待ちきれずに二十五日の午前に仕事を抜け出して行ってしまいました。 一時間くらいで戻るつもりでしたが、夢中になってしまい三十分程予定を過ぎてしまったくらいです。 平日午前と言う事で人がまばらなのが幸いしました。

 さて上野東照宮ぼたん苑へはこれで五回目、満四年目となりました。 いつしかそうなってしまいました。 最初の訪問よりもう四年の歳月が過ぎてしまいました。 昨年は丁度あの大震災大津波災害の後で、行くのも躊躇したところがありましたが、今年は当時の気持ちとは違ってはいますが、また今年もぼたんを拝めるかとの気持ちが強い。 一期一会の気持ちで臨みたいと格好をつけても、入りだして夢中になってしまうと、そんな事を忘れてしまいまして、舞い飛ぶ蝶のような気持ちとなって浮かれてしまう。 それでいいのでしょう。 

 明日ありと思ふこころの仇桜夜半にあらしの吹かぬものかは」 親鸞  さくらの頃、四月上旬に思い出した歌を掲載した事がありますが、まさにそうなのでしょうけれど、ぼたんを見るや夢中になる、それほどの魅力がある。

 「無常なり、明日ありと思ふこころの仇桜」と言ってわかったようなつもりになっても、生きるとはそんな事も忘れて夢中になるのが、命と言うものの力のはずです。 喉がからからに渇いて水をがぶがぶ飲む、明日の日わからずの命ならば、飲む必要もないのですが、そうは行かないで、がぶがぶ飲む。 これでいいのでしょう。

 昔の駄句に「空海も腹を減らせば何食ふかい」ってのがありましたが、腹ペことなれば無常も極楽もへったくれもなくなってしまうはずです。 背に腹は代えられない。 腹が減っては戦さも出来ない。坊様だろうが誰だろうが人間の本音のはずです。

 前置きが長くなってしまいますが、「食、食物」につきまして、思い出した文章がありますが、ここではほんの一部を掲載しておきます。 本居宣長様が「世ノ中に無常至極のたふとき寶は食なりといふ也」と極言されています。 更に詳しくは一番下に転記しておきましたの御参考に。

 心配した陽気のせいか咲いている数が少なくも思いましたが、咲いている姿を見れば、有頂天となり、どんどんと惹きこまれてしまいます。

 人間は信ずるに足らず、今回の原発事故やその後の事を見れば、まさに信ずるに足らずを実感するはずです。 また貨幣経済金融のカラクリを知れば、信ずるに足らずを確信する。 

 こうして牡丹を次から次へと眺めていますと、天自然の力量測り知れず、測ることあたわざるを知る。 「掛けまくも畏き(かけまくもかしこき)」としか言えない。 同じ御力で自分の命も保たれていると感じる次第です。

 途中で携帯のカメラでの写真を頼まれたのですが、携帯電話も持っていませんし、携帯カメラも使った事がない。 ただボタンを押せばいいだけの事との事ですが、背景にぼたんがうまく写るようにして、三枚程撮って差しあげました。 おらがあのオラーキー様とは露知らずのはずです。(^_^;)  昨年の今頃ならばこんな冗談も出なかったのですが、あれから早一年が過ぎてしまい、こうして無事にまたぼたんを拝める。 無病息災仕事あり、ありがたき哉。 

 ふと思うのですが、こう言う花の慰めです。 花の種みたいなものがこの世に発生して、水と空気とお日様の御蔭で成長して見事に開花して実となる。 さくらを拝んだ時に「死んで花実のあるものか」と言う言葉が頭をかすめたのですが、やはり「死んでぼたんのあるものか」と感じています。

 吾を忘れて夢中になる、まるで蝶が花から花へ舞い飛ぶような気持ちとなる。 蝶は心と言う厄介なものは持ち合わせないはずです。 すなわち「無心」と言うわけでして、ただ命の命ずるまままに生きる、その姿が何とも言えない。 人間となりますとなまじっか智恵みたいなものが働き、それが悪智恵ともなったり、都合のいい勝手気ままな生き方も許される。 人の世のあやしさを眺めれば、その通りのはずです。  

 青葉若葉の画像も最後に掲載しますが、ついでにツツジも一枚だけ載せました。 清々しい新緑の季節となりました。 命盛んな季節です。 どんどん芽が出てどんどん花が咲き乱れる。

 「目に青葉山ほととぎす初かつお」と行きたいのですが、もはやそうや問屋が卸さない。 今年もかつおは我慢して控えましょう。 残念ですが、これからはもう日本の魚は食えなくなる時代となるのですが、それほど放射能の被害はひどい。 米も野菜も口にするものは何でも注意をしなければならない状況となってしまいました。 たとえ注意をしても防ぎきれないなくなってしまっているのが現状なはずです。 

 おっかなぇー、くわばらくわばら。 昨年末に「収束宣言」なんかしてしまったおバカちゃんがおりましたが、頭が相当いかれているのでしょう。 これから何百年あるいはそれ以上に渡り、この重荷に苦しめられ背負なければならないのに。

 海に垂れ流しを続けてお咎めなしか、一体どうなってるんだ。 帰りに上野の駅前で原発反対の署名をしてカンパ(カンパとは、ロシア語のкомпания (kompaniya, カンパニア=英語のcampaignと同義)をしました。 貧者の一灯、貧者の一投と言うべきものですが、お役に立てればと思いました。

 そもそも世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてはかなはぬ、無常至極のたふとき宝は、食物也。 まづ人は、命といふ物有て、万の事はあるなり、儒者仏者など、さまざま高上なる理屈を説けども、命なくては、仁義も忠孝も、何の修行も学問も、なすことあたはず。 いかなるやむごとなき大事も、命あつてこそおこなふべけれ、命なくしては、皆いたづら事也。 然れば、人ノ世に、至て大切なる物は命なるに、その命をつづけたもたしむる物は何ぞ、これ食也。 金玉(キンギョク)なぞ尊しといへども、一日の命も、保たしむ事あたはず。 故に世ノ中に、無常至極のたふとき宝は、食なりといふ事なり・・・・。」 本居宣長   ※ 誤字脱落誤転載あらば御容赦下さい、宣長先生。

 

                         

                                               

  「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。