さくらが散った頃につつじが咲き出す、上に掲載の「久留米つつじ」に八重桜の花びらが見えます、この時期の花模様を掲載したくなりました。 色々な思い出がありまして、嬉しき事悲しき事つらき事さまざまですが、掲載の中心となるのはやはりひときわ目立つつじとなります。 うぐいすの声も響き出す頃、青葉若葉の季節です。 かつおも出始め、ざるそばでも食いたくなる。

 つつじの名所名園と言われるところもあるのですが時節柄人混みも相当ありそうですし、つつじは身の回りで結構どこでも見られますので、ほとんどが身近かでの撮影と言う事になります。

              

 ここからは四月三十日と五月一日に撮影したものでして、丁度見頃のはずです。 撮影と種類は可能な限り工夫したつもりですが、至らざるところは今の自分そのものでして、隠しようがありません。 御覧の通りと言うしかありません。 小手毬(こでまり)も一枚入れてありますが、風が強く吹き出してぶれてしまってはいますが、見ていますと風が吹くとすぐに揺れ戻る、まるで小さな毬をついているようにも見えまして、その名の由来かと納得しました。

             

               

               

  撮影している時は夢中になり、我を忘れ世上の事も忘れててしまうのが真(まこと)によし。 命のはかなさを強く感じながらの撮影となりました。 しばし憩わむしばし楽しまむや。 

 東北の被災者の避難している光景と原発に翻弄されている人々(棄民)の姿を見ると、その悲しみ嘆き憤りについつい涙が落ちてしまいます。 今は亡き両親は丁度東京大空襲で焼け出されたのですが、やはり棄民だったのですが「受忍」で済まされ償いなしで終わってしまいましたが、今回は、六十五年くらい過ぎたのですが、そうは問屋が卸さないはずですし、そうあって欲しい。

         

 大昔のように「南米に肥沃な広大な土地がありますよ、豊富な漁場が待ってますよ」、ってな話はもはや通らないはずです。 南米から出稼ぎに来ている時代です。

 原発棄民の原状復帰となると途轍もない事になってしまうはずですが、嘘八百のつけからは逃げられまい。 そんな事は明白ですが、まだまだ誤魔化しは続きそうです。 あの汚染地区は廃墟・死の町となるしかない。 もしかしたらあの県全県に及ぶかもしれない。 

 以前に福島県のお客様から実に香りのいい水分たっぷりのおいしい梨を頂いた事が覚えていますが、福島県は果物の豊富な地方のはずですが、今頃どうされているか。 あの県だけでは止(とど)まらないかもしれないのは空恐ろしい事です。 


              

                          

                                               

 「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。