曇りの日、十一月二十八日に駒込の「六義園」へ紅葉を眺めに行きました。 昨年は二十九日で晴天でした。 昨年は朝一番九時に入り、今年は十一時頃となってしまいました。 時間の事もあり結構人が入ったはずですが、ともかく広いので、人はまばらと言うべきでしょうか。

 晴天の昨年の訪問とは違い曇りの日の風情もよかろう趣きも違うはずと期待がありました。 昨年は正門から今年は染井門と言う駒込の駅からすぐの所から入園出来ました。 画像は八十五枚となりますが、それぞれに溜息をつきならが撮影したはずです。

       

 深山幽谷と言う言葉の表現はありますが、まさにそう言う趣きがあり、しかも都心のド真ん中にある。 この時期、名所や遠くへとも思うこともあるのですが、近くで楽しんでいます。

 世間を生きるとは人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。 その事、定まれる事なし。 分別みだりに起りて、得失止む時なし。 惑ひの上に酔へり。 酔ひの中に夢をなす。と言う事に尽きる。 まさに言い得て妙なりと言う表現としか言いようがありませんが、これ以上の表現にはまずお目にかかれない。

 世上の塵埃にまみれたわが身がしばし我を忘れ世間を忘れて夢中になれる。 わが身の垢が祓(はら)い清められた思いがしました。 わが身についた穢れを払う禊(みそぎ)をしたと言っても過言ではないような気分となりました。 

       

         

               

 「人遠く、水草清き所に、さまよひ歩くばかり、心慰む事はあらじ」、「岩砕けて清く流るる水のけしきこそ、時を分かたずめでたけれ」と徒然草に侍り。 

 遠く深山に足を運ぶ気は今のところ毛頭も起こりませんが、深山幽谷の趣きに浸り、徒然草の言葉を味わい直しています。

               

 六義園の染井門入り口に咲いていました寒椿を最後に掲載しました。 しばし我を忘れたいい時を過ごせました。 深山幽谷の霊気に清められたと言ってもいい。 目の不思議、命の不思議を今更に感じられましたし、また画像を編集する手の動き頭の具合いの不思議をも感じました。 普段は日常茶飯事で当たり前のようにしていたものが、新鮮に感じられるのもまた不思議です。 

 普段は愚痴や不満ばかしの日常ですが、こうして無事に過ごせる、それだけでもありがたきかなと感じ入りました。 「存命のよろこび日々に楽しまざらんや」、まさにその通り。

  最近風の吹き回しで「古事記」を読み始めましたが、天自然の所作(しわざ)、動物人間の所作の不思議をつくづくと感じ取れたからこそ、八百萬(やほよろづ『たくさん』)の神の御名(みな)を名付け唱えられたはずと想像します。 物事に感心感動出来ない世となっては出来ない話のはずです。

           

               

 

  さて今年は「六義園」で十分に楽しめたので紅葉の画像を終わりにするつもりでしたが、身近な近所を歩いていますと、どうしも惜むべき光景が目入りますので、近所で紅葉黄葉を気ままに撮りましたが、少し時期が遅くなってしまったようでして、昨年よりは見栄えがしないかもしれません。 撮影日は十二月の四日でして、この日は風が強く吹き大分散ってしまいました、六義園では曇りの日でしたが、雲ひとつない青空のもとでの撮影となりました。

              

               

      

 今日ではデジタルカメラの出現で技術的な事はほとんど解決されたと言っても過言ではないくらいのはずです。 こうしてカメラなんぞとは縁もなかったような自分でも見栄えのする写真が撮れるようになってしまいました。

 しかしながら絵の捕らえ方となると目の修練が必要となり、修練には世間を騒がす学歴も資格も不要となる、そんなものは何の役に立たない。 今日修練とか修行なんぞと言う言葉は死語に近くなってしまったかもしれません。 長い時間のかかるものでして、そんな面倒くさいものは捨ててしまえと言う時代となってしまったはずです。 

 人の世を見れば、あっちでおぞましき事故、こっちで人殺し、あっちで強盗万引詐欺生活苦等々で安心しては暮らせない。 地獄と言ってもいいくらいですが、この世は寶(たから)に溢れている、あり過ぎるくらいあると感じられる限り、この世が輝いて見えてくる。

 「いたづがはしく外(ほか)の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、あやふく他の財をむさぼるには、 志(こころざし)満つことなし」と徒然草に侍(はんべ)り。 さて「この財(たから)」とありますが、命そのものに備わった寶、すなわちもののあはれを感じ取る力なりと合点するまでに、自分には数十年の歳月が必要だったのですが、熟成の時が必要でありました。

 論語の初っ端にある「而時習之、不亦説乎 時に習ふ、またよろこばしからずや」と言葉をいつしか合点する時が来る、その時こそ「説(よろこ)ばしからずや」だと思えるようになりました。
 この論語の言葉を一つを合点するまでに、自分には数十年の歳月がかかってしまいました。 之学ならざらんや。

  十二月七日 またまた追加したくなってしまいました。 眺めながら、「もう年の瀬か」と溜息が出る。 今年を惜しむような気持ちで撮影しました。 時は過ぎて戻る事あらざるなり。 朝日に一段とあでやかさにもみじしています。

       

 「人皆生を楽しまざるは死を恐れざる故なり。 死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり」と徒然草には侍(はんべ)り。

 

                                           

                                                                

 「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。