ここのところ「原発」についての本を読み続けていますが、浮かぬ気持ちとなってしまう。 まだまだ始まったばかしの原発被害ですが、これからどうなるか思うと空恐ろしい。 空気土壌雨食べ物飲み物、どれももう安心してはいられない状況となってしまっているのですが、その実感が希薄である事がまた恐ろしい。 相変わらず浮かぬ気持ちが続いてしまう。 

 そんな中で何とかすっきりとした、無我夢中になりたい気持ちが強く、多分二年ぶりに上野不忍池(しのばずのいけ)を訪れました。 朝九時頃に着いたのですが、暑いのには閉口してしました。

 それでも撮り出すと夢中になれる、蓮華(れんげ)か、仏教でも蓮華経とある。 蓮はやはり格別の花、しばし憂き世を忘れさせてくれる華であるのは間違いなし。 それほどすばらしい。

 八月には満開になるそうですので、かなり暑くなりそうですが、今年はもう一度訪れて池いっぱいの満開のはすの花を拝みたい、思っただけでも圧倒されそうな感じがします。

              

               

 不忍池に弁天様があるのですが、亡きお袋が元気な頃、多分十五年あるいはそれ以前までは毎月のようにお参りをしていたはずですので、当時どんな気持ちでお参りし、何を念願していたのか思いながら、自分もお参りをしました。 俺の仕事の繁盛を願ってくれたのか、ふとそんな事を思いました。 背の高い着物姿のいい昔風の顔立ちをしていました。 しゃしゃり出る事のない義理がたく律儀な人でした。

  「着物を縫え、着物着こなし、着物が似合う」世代が消えたのでしょう。 今の「人情風儀」も忍び難く見ずに済んだのも慰めとなるはずです。

  昨年の夏に亡くなったのですが、今年の三月十一日大地震を経験せずに逝ってしまったのは今となっては慰めとなる。 大津波による被災者も原発被害も知らずに済んだ。 もう一人では思うように動けない体となってしまっていたのですが地震となれば何とか逃げようするくらいの気丈な人でしたので、動こうとしてひっくりかっていたはずでした。

 

  平成八月八日、そろそろかと思い満開の蓮を見たくなり上野不忍池を再び訪れる。 内心もしかしたら期待はずれとの心配もあったのですが、期待通りでした。 前回が七月十八日でしたので、二週間程が経過しました。 暑い、早朝六時頃ならばとは思いますが、それは今は叶わぬ事ですが、近所に一泊でもすれば出来る。 

 御高齢者で片腕の人が絵を描いていましたが、「自分は絵が描けないないので写真で済ましている」と話掛けました。 絵は描いた事がありませんが、完成後よりも書き上げるまでがより楽しみが多いのではないかと想像しました。 くだらない写真集をやっていますが、こちらも編集中が一番の楽しみです。 勿論完成してから後で見て振り返るのも楽しい。

            

                

             

 途中で前回同様に弁天様にお参り、昨年の八月二十六日に亡くなったお袋は「何を願ってお参りしたか、どんな気持ちだったのか」、やはりその事が気になりました。 昨年の今の時期は休みの日は一日四回くらい、仕事の日は朝晩の二回ほど、どうしようもない暑さの中を見舞いに通い、動けなくなった手足を揉んでいたのを思い出しました。 もう一周忌も真近となりました。 下のカモの画像はおまけです。

 「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。 かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。」と徒然草第七段にも侍(はんべ)り。

             

 

                          

                                               

 「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。